あるきデス

50代からの毎日の歩き方from鎌倉。Rock your life! ジタバタしたっていいじゃないか!

仕事ライフの迷路「つまらない」の細道を歩く

こんにちは。ユル~くネバ~くある人こと「ユルネバT-800」です。

 

さて第2回目のテーマは、いきなり「仕事と迷いとやりたいこと」です。

 

なんか、説教臭い感じですけど説教垂れる気持ちはさらさらなく、迷ってばかりの私の「迷歩」を綴ってみようというわけです。

 

迷ってばかりの仕事ライフ

ここでいう「迷い」とは大学を卒業して働き始めて数十年ずっ~と続いている「自分が本当にやりたい仕事(こと)ってこれなのかな~?それとも・・・。」という思いのことです。

 

私はなんとなく、新卒で広告会社に入りそのまま転職を重ねながら広告→マーケティングという畑を歩んできました。周りには真剣に楽しそうに仕事を語り、働いている人達がいて、そんな中にいると「自分がここにいるのは申し訳ないなあ~」との気持ちをいつも心の片隅にもったままでした(そして今も)。

 

といっても仕事がつまらなかったわけでもなく、そこそこ刺激もあれば自分のアイディアが形になったりとそこそこ楽しい(=やりがいがある)わけです。この、「そこそこ」がクセものなんです。

 

多少の不都合にも慣れてしまうことの「ツケ」

「この仕事やっていていいのかな~?」との迷いを持ちつつも、「そこそこ」楽しいし、「そこそこ」待遇もいいので気持ちのアップダウンもありながらも辞めたりせずに(会社は変わっても)気持ちと現実の折り合いをつけて続けてしまうわけなのです。

 

当時から自分がその時その時に感じたことをメモにしていました。久しぶりにそのノートを開いて見ると・・・こんな言葉がありました。例えば:

 

「年収1000万円もらって、75㎡のマンション買って風呂場に生えるカビと毎週末格闘してそのまま気付いたら30年が過ぎているんだ」

 

「30ウン歳にして人生は真っ白なキャンバス。何かを描きたいけれど何を描いていいのか分からない」

 

等々。

 

なんか、カッコよく書いてますけど、ここには二つの真実があるわけです。それは:

 

① 本当にやりたいことよりお金が優先。

② そもそもお金があっても本当にやりたいことがない。

 

ということです。

 

結局は、変えることの面倒臭さ(=スイッチング・コストの支払い&既得権益を失う恐怖)に負けて現状維持を選ぶわけです。そして現状さえも維持できずに、ぬかるんだ下り道を歩み、気付けば断崖絶壁に立っている自分がいる。そして再び同じことを自分に尋ねています。「やりたいことは何?」「結局は自分は何者?」

 

ここまで(ガマンされて)読まれてきた皆さんの中には「バブル組?贅沢言ってんじゃないよ~。仕事あるだけマシだろよ~」と思われている方もいらっしゃるかもですね。

 

仰る通りです。「本当にやりたいことは何?」という迷いは「そこそこ」仕事が(生活が)順調な時には(もしくは大きな障害がない時には)大した問題ではありません。

 

でも、いったん左遷だ、降格だ、リストラだ、なんてことになると今までの「そこそこ」で折り合いつけて来たことの「ツケ」の支払いが一気にやって来ます。

 

「やりたい」だけが全ての迷いを消し去る

仕事ライフの悩みと言うのは、「本当にやりたいことがわからない」だけに集約されるわけではありません。一番多いのは上司、同僚、部下などとの人間関係の悩みでしょう。

 

またいろいろなノウハウ本に書かれている、基本スキルとか心構えとかが身についてないということもあるでしょう。

 

でも、他人との関わり合い方とか仕事の基本スキルとか心構えとかの情報の海で溺れたり消化不良になる前に、実は自分の気持ちが一番大切なことに気付いて欲しいなどと偉そうに思うわけです。

 

つまり「やりたい」のかどうかの1点です。ここでいう「やりたい」は仮に余命1年をあなたが宣告されても他のこと全てに優先して最後の最期まで「やりたい」仕事(こと)なのかどうか?ということです。

 

この状況に至ってはあなたの中で本当にやりたいことが定まっていたら(今現在やっているなら)お金の問題は解決されないまでも、「迷い」は全て消し去られていることでしょう。

 

 

それでもやはりお金の問題は大きいですね。いくら「やりたい」ことがあってもお金がないとできないというのはその通りだと思います。それを分かった上で申し上げると:

 

①お金はある(経済的に困っていない)。「やりたい」ことも定まっている。

②お金はある。「やりたい」ことは定まっていない。

③お金はない。「やりたい」ことは定まっている。

③お金はない。「やりたい」ことは定まっていない。

*ここでいう「やりたい」は前述の余命1年仮説で定義されている「やりたい」です。

 

の四つに分類したらどれが一番いいでしょうか(あなたならどれを選びますか)?

 

「そりゃ①でしょう!」。ごもっとも。でも一番いいのは③!とここでは言い切ります。なぜなら経済的な下支えとは無縁にあなたは「やりたい」ことを決めている、つまりそれこそ「本当にやりたい!」ことなのですから。

 

2人の好対照な仕事ライフ

さて、ここで私が「お金と人生でやりたいこと」の文脈で思い出す二人の人物をご紹介させてください。

 

一人目はアメリカのノーベル文学賞作家ソール・ベローの「この日をつかめ(原題:Seize the day)」の主人公トミー・ウイルヘルム。

 

私の下手なあらすじより、文庫本裏表紙の筋書きをそのまま載せますね。

 

「44歳になるトミー・ウィルヘルムの半生は失敗の連続だった。おまけに現在の彼は、もう何ヶ月も職がなく、妻と子と分かれて父と同じホテルに住んでいるものの、部屋代にも事欠き、投資につぎ込んだ700ドルも果たしてどうなることか分からない・・・・。人生の峠を既に越えたかに見える一人の男の危機的な一日を追いながら、究極の状態における人間存在の意味を問う」

新潮社文庫 ソール・ベロー作 大浦暁生訳「この日をつかめ」より

 

1976年にノーベル文学賞を受賞し2005年4月5日に89歳で亡くなったソール・ベローが1956年に発表したこの作品を読んだのは大学生の時か?新卒で働き始めた時のことか?・・・はともかくこの主人公の状況が痛いほど分かってしまう自分がいたのでした。その時多分思ったことは「いつの日か自分もこうなる」という予感。

 

主人公のトミー・ウィルヘルムはかってエキストラと言えど映画俳優だったという設定。それが今や無職のその日のお金にも困っている状況。

 

かれはまさに前述の4分類の④の代表なのです。痛すぎる状況の痛すぎる中年男に共感出来てしまう若き日の私。う~ん。なんだかなぁ。

*ソール・ベローの作品はことごとく絶版になっているようで、ぜひ再度リリースして欲しいものです。

 

次に二人目。アーティスト斎藤義重(Saitoh Gijyu)です。

 

この人の代表作ともいえる抽象画「鬼」は知っていたものの1999年に開催された神奈川県立近代美術館(鎌倉)での「斎藤義重展」での一連の立体作品には大きな衝撃を受けました。

 

この人の作品には西洋へのコンプレックスが感じられない。戦後のアメリカの抽象表現主義も眼中になし。まさに自分の「つくりたい(=やりたい)」ものをつくっている(=やっている)と強く感じだのです。

 

ユーモアでエッジーで唯一無二。

 

そんな斎藤は自分の絵画や作品を売ろうともせず・・・の無名時代が続き、50歳にして千葉県浦安へ病気療養のため転居。今の「夢の国」の浦安ではなく素朴な漁師村の浦安。そこで生活は困窮したのでした。

 

それでも53歳に第4回日本国際美術展に「鬼」を出品。K氏賞受賞。この作品は現在でも斎藤義重の代表作として国際的にも斎藤の評価(人気)を高める絵画作品であります。

 

斎藤義重の「歩み」については、またあらためて書きたいと思いますけど、彼こそは前述の④分類の中で私が1番いい!と思う③の代表なのであります。

 

結局「迷歩」し続けることが大切

そんな斎藤義重でさえも絵画制作に疑問をもち、小説を書き続けた時期もありました。

 

私は仕事のノウハウや心構えより、「これを他の何よりも優先してやりたい」という根源的な衝動こそがすべての迷いや悩みや困難を克服して人に生きる力を与えてくれるもだと信じています。

 

でもそれは、効率的に一足飛びに見つかるもではありません。なので迷ってOKなのです。一番よくないのが私もそうであったような「そこそこ」の生活の中で迷うことさえも止めてしまうことなのです。

 

なので大いに迷歩してください。で、なにより頭でっかちになって歩みを止めてしまわないように意識をちょっと変えるためにも身体を使って歩いてみましょう!答えは与えられるものではなく、自分で見つける(楽しみがある)ものなのですから。

 

なんか第二回目も分かったような分からないような・・・で次回からは「桜を求めて歩こう!」で書いてみたいと思います!

 

では、次回もYou'll never walk alone!